【その6 最終回】Steve Grossman研究-70-80年代のスタイル変遷を検証する―

<その6 謎の路線転換とハードコアビバッパーとしての復活 82-86年>

 前回採り上げた81年夏のギルエバンスのライブアルバム以降、グロスマンの録音は一時途切れる。

 この時期は、私もすでにリアルタイムでジャズ界状況を見ている。当時は、ジャコ入りWeather Reportがそのピークを迎えており、マイルスの復活もあっていわゆるシリアスなフュージョンが全盛であったといえるかもしれない。ニューヨークジャズ シーン的には、ブレッカーブラザーズが経営していた7th Avenue Southあたりで、毎夜強烈なセッションが繰り広げられていた時期であった(それが表に出てきたのがStepsやマイクマイニエリのセッション)。

 一方、マルサリス一派がシーンに表れてそれなりの影響力を持ち始めたのもこのころ(82-3年頃?)であり、60年代、50年代(さらにはもっと 前)への回帰とフュージョンムーブメント、あるいはそれを消化したうえで発達していたニューヨークジャズを否定するような動きが起こり始めた時期といえ る。

 そういえば、この同じ時期(82-84年ぐらい)にマイケルブレッカーも音源が極端に少なくなっている。これは喉の手術が原因といわれているが、 いわゆる麻薬過から抜け出すために入院をしていたという要因もあるはずである(81年12月のジャコのバースデーライブは、その手の病院への入院直前に行 われたという記録もある)。

 あくまでも想像だが、この時期、ニューヨークのジャズシーンは急激に変わっていたのではないかと思う。スリクでイケイケで、観客を無視したような 過激な演奏バリバリ、みたいな環境から、クリーンでクールで大人しい「仕事」中心みたいなシーンになってきたというか。NYの街全体としてクリーンになり つつあったとか、ジャズがいわゆる伝統音楽として観光資源的な扱いになっていったという要因もあるかもしれない(マルサリス一派はそれを後押ししたともい える)。音楽的にも生活態度的にもそのクリーン化に乗り遅れて自滅したのがジャコだったりするわけだが。

 そんな中、生粋のスリクイケイケニューヨーカーだったグロスマンもニューヨークでは肩身が狭くなっていたのではないかる。一方、音楽的にもシーン全体が混乱期に入る中、自分の生きる道を考え直したとしてもおかしくはない。

 というわけで、84年以降、グロスマンはそれ以前のリーダー作とはまったく異なる路線のアルバムを立て続けに録音している。86年までで私が確認しているのは以下。

1) 【Way Out East Vol.1, 2】1984/7/23-4@Milano, Italy
2) 【Hold the Line】1984末 or 1985初め?@ New York
3) 【Love is the Thing】1985/5@Italy
4) 【Standards】1985/11@New York
5) 【Katonah】1986/2/4@日本

 1) と3)はイタリアのRedレーベルの制作で、イタリア録音であるが、バックのミュージシャンはすべて米国ジャズマン。2),4),5)は日本人ドラマーで ある我らが吉田さんの働きかけで作られた日本制作盤である。特に5)は来日時に日本人のミュージシャンとともに録音された作品。

 1984-5年あたりは、大学生の私がすっかりグロスマンにハマっていつつ、その活動が見えなくて寂しい思いをしていた時期であるが、こうやって 改めてみるとすっかり活動を復活させていたんだなあ。ちっ。確か、私が大学の4年生だった1985年の初めあたりから、グロスマンが日本人と一緒にアルバ ム録音した、みたいな噂がジャズ研界隈に伝わり始め、同年半ばに”Hold the Line”がリリースされたのがグロスマン復活の第一弾ではなかっただろうか。ものすごくダサいジャケットのレコードを手に入れ妙に興奮した記憶がある。

 演奏フォーマットとしては1)はテナートリオ、そのほかはピアノ入りのワンホーンカルテットである。グロスマンフリークはすでにご存じのとおり、 ここら辺のアルバムはすっかり「スタンダードをロリンズのように」というスタイルに変貌している。以前のレパートリーは5)に入っているKatonahと Taurus Peopleぐらいだ。今やスタンダードを演奏するのがすっかり普通でモードの曲やると驚かれるようになってしまったグロスマンが、当時はリリースされる たびに、あの曲がこの曲がと狂喜乱舞したものだ。

 ほとんどのアルバムが「その場の思いつきで適当に選曲した」感満載なのだが、その中で異色なのは3)だろうか。シダ―ウォルトントリオという世界 一端正なピアノトリオをバックに、極めてストイックかつスタイリッシュな演奏をしている。もうすこしわかりやすく言うと、無駄に熱くならず、短いコーラス で極めてキッチリと構成されたソロをやっているという意味だ。まさに50年代中盤のロリンズみたい。曲も普段やらなそうな”I didn’t know what time it was”なんて渋い曲やってたりするし。ちなみにこの曲のソロは恐らくグロスマンベストソロ集の中には必ず入ってくるであろう名演。時折グロスマンフレー ズも織り交ぜつつ非常によく唄っていてしかもまとまりのあるソロ。っていうかこのアルバムごとグロスマンアルバムベスト5には必ず入るであろう名盤なので まだお持ちでない方はぜひ。iTunes Music Storeからオンラインで買えます。たしか900円。ブチ切れグロスマンを期待すると裏切られますが。

 さて、私は当時のライブ録音というのも多少持っている。86/2の来日時の演奏はすでにみんな知っているので、自慢含みでその多少前のニューヨー クでの隠し録りのことをちょっと書いてみる。この音源そのものを入手したのが1985年で、結構複雑な入手経路のはずなので、おそらく実際のライブは 1984年あるいは1983年とかであろう。というわけで、要はお隠れになっている時期の演奏の可能性ありということだ。

 隠し録りには二つのセッションがあり、片方はラッパにトムハレル(!)、ドラムにビリーハートが入っているクインテット。もう一方はドラムにアー トテイラー(!)、ピアノにロニーマシューズが入っているカルテット。選曲としては、やはりもう完全スタンダード路線で、おなじみのFourとかStar Eyesとか、Mr.PCとか。いや、どちらも凄いんだが、やっぱりアートテイラーが凶悪なんすよ。すげースイングしてる。OleoとかMr. PCとかグロスマンを煽りまくりでグロスマン負けてるし(笑)。

 というわけで、1984年ごろにはニューヨークに拠点を置きながらすでに現在のスタイルに繋がる路線転換を遂げていたわけで、82-83年ごろに 何があったのかは非常に興味深い。一番上の方に書いた様なニューヨークジャズシーンの変化の中、身の置き所を考えたという仮説は結構面白いんじゃないかと 思う。その後ヨーロッパへの移住という事件もあるし。しかし、残念ながら現状私が持っている情報ではこれ以上の分析は不可である。

 上であえて「路線転換」と書いてみた。というのは、それ以前とはっきりと変わったのは、「回りのメンツ」と「選曲」であり、グロスマン自身のハイ ブリッドスタイルは実はあんまり変わっていないと思うからである。当然、その時期に改めてロリンズをはじめとするコルトレーン以前の巨人を相当研究したも のと思われるが、日本での86年、87年のライブでもわかるように、なんだかんだ言って盛り上がるとグロスマンフレーズオンパレードになっちゃうし、やっ ぱりフラジオは使うし、ソロ長いし、さらに言えば八分音符のドライブ感や、音色、音量といったジャズテナー奏者としてのエッセンスは1975年のピットイ ンライブ、あるいは前に紹介した”New Moon”に入っているOut of Nowhereなどとあまり変わらないと思うのだ。多少変わったとすると、ベタなバップフレーズが増えたってところですかね。

 さて、上記に上げたアルバムのうち最後の5)は、86/21-2月に掛けて単身来日した時の演奏である。その来日の時は私も見に行ったし、翌年の 来日時には驚愕の(?)ライブアルバムを残しているし、活動がトレースしやすい状況であるので、本論ではこれ以降のことは取り扱わないことにする。それは ともかくとして、この5)のアルバムのライナーを見ていたら面白いエピソードが載っていたのでそれを紹介して終わりたい。

 曰く、ライナーの筆者が70年代はソプラノの演奏で著名だったグロスマンになぜ最近はテナーしか吹かないのかと質問したところ(86年のツアーはテナーだけで通した)、グロスマンが、
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「テナーは男の楽器である。テナーの持つ音の表現力のすばらしさに取りつかれてしまって他の楽器を持つことができない」
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と答えたということである。ちなみに当時グロスマン35歳。

 おいおいホントにそんなこと言ってたのかよ(笑)、とか、そういいながら翌年のツアーではソプラノ吹いてたじゃんかよ(確かに借りものだったらしいが)、とか突っ込みどころ満載の発言ではあるが、なんとなく変に納得するところもある。

 そうなのだよ。やっぱりこの人は、音楽よりもテナーサックスなのだ。テナーは男の楽器で、いかに男らしくテナーを吹けるか、を追及していったら、 コルトレーンからロリンズ、さらにデックスやベンウェブスターやレスターヤングやら、といった歴史上のテナー吹きの演奏を意識するのは当然といえば当然 で、当時の路線転換も当人としては当たり前だったかもしれない。

 当人以外からみると、グロスマンは、デビューした当時から今に至るまで、その「男の楽器」の魅力に満ち溢れた「稀代のハイブリッドテナー吹き」で あり続けており、それがゆえに私を含む世界中のテナー吹きをいまだに魅了してやまないのだ。その後数多くの有望テナー奏者が表れているが、「男らしさ」と いう観点ではだれが逆立ちしてもグロスマンにはかなわないと私は強く信じている。よって、信者としてはどんなスタイル、どんなフォーマットでもかまわない ので生演奏をまた聴きたいし、どんな時代の録音でも入手したいのだった。教祖様万歳(笑)。

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 というわけで、スタイル変遷の背景などの考察はほとんどできない表題倒れの研究もどきでしたが、いったん終了ですかね。ご愛読ありがとうございました。

 おまけですが、グロスマンの「男らしさ」については以前にこんなのを書いているのでご参考まで。

http://homepage2.nifty.com/hyagi/band/gross.htm

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【その5】Steve Grossman研究-70-80年代のスタイル変遷を検証する―

<その5 フュージョンへの最接近、不適応、そして行方不明(笑) 79年~81年>

79年からの数年間、グロスマンの活動は単発的になる。多分NYにはいたのだろうが、特にパーマネントなグループに加入してはいなかったようだ。 マイルスとかエルビンとか大物とやっていたわけでもなく、あんなに仲良しだったStone Alliance一派とも袂を分かってしまった(同グループの80年のアルバムではグロスマンは外れてボブミンツァーが入ったりしている)。というわけ で、活動のトレースは結構難しいのだが、たまたま持っている何枚かのアルバムを元に当時の状況を検証してみる。

さて、欧州ではアコースティック回帰の動きを見せていたグロスマンであるが、本国米国ではNYフュージョンムーブメントに翻弄されている(って当人翻弄されたつもりはないと思うが)。

それが典型的に表れたのが、1979年発表のリーダーアルバム、”Perspective”といえるだろう。本作は、メジャーレーベルであるアト ランティックからリリースされているが、誰がこんな作品を企画したんだろうか(笑)。まさに時代の産物と言えるなあ。ビニール盤のジャケットには録音日付 は記載されておらず、1979年リリースとだけわかる。まあ、録音も1979年と考えておいて大まかに間違いはないだろう。

<Perspectiveのジャケット。冴えない>

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<ウラジャケットにはホームレス風の教祖様が(笑)>

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 このアルバムがどれだけフュージョンに振れているかは参加ミュージシャンを見るとわかるので、面白いからそのまま書いてみる。

Steve Grossman: Soprano and Tenor Saxophone
Bugzy Feiton : Guitar
Barry Finnerty: Guitar
Onaje Allan Gumbs:  Keyoboards
Masabumi Kikuchi: Piano
Mark Egan: Bass
Marcus Miller: Bass
Steve Jordan: Drums
Victor Lewis: Drums
Lenny White: Drums
Sammy Figueroa: Congas
Rapchael Cruz: Percussion

 

マーカスにスティーブジョーダンだぜ、これって”Tochika”と同じだな。ギターもバズフェイトンとバリーフィナティだもん。NYフュージョン最前線(笑)。

 で、このメンバーでやる曲はCreepin’(これはスティービーワンダーの曲だがStone Allianceでもカバーしてた)とか、グロスマンオリジナルのKing Tut、KatonahなどStone Allianceやグロスマンリーダーでおなじみの曲。もう少し工夫すればいいのに(笑)。といいつつ、異色なのはやはりA面4曲目のThe Crunchiesという曲だろうか。異常にさわやかなフュージョンでソプラノ吹いてる。ナベサダのモーニングアイランドとかに入っていてもおかしくないぞ。おそらく現存する音源の中でもっとも非グロスマン的なテイクだといっても過言ではあるまい。菊地雅章はPastel2という幻想的な曲を提供し、自ら ピアノを弾いている。

 グロスマンのプレイは、曲も曲だし、まあ、変わらずグロスマンだ(The Crunchiesを除く)。フュージョンサウンドをバックにここまで我の強い音+フレーズというのもまた珍しく、グロスマンらしいといえよう。この人、 この手のサウンドでもあんまりブルーノート使わないんだよね(全然使わないわけじゃないけど)。基本はグロスマンフレーズ。

 まあ、時代のアダ花感プンプンの迷盤、珍盤の類ではあるが、グロスマンの変遷を知るために、フリークにとっては欠かせないアルバムだと言えよう。

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その他の活動として欠かせないのは、実はNYの日本人絡みのアルバム2枚だ。

まず、1979/6/15日は前の日記にも出てきた中村照夫のパーマネントバンドであるRising Sun Bandのカーネギーホール公演への参加。これが”At Carnegie Hall”というライブアルバムになっている。一応グロスマンはレギュラーメンバーの様なのだが、ゲストとしてランディブレッカーとまだNYシーンにデ ビューしたばっかりのボブミンツァーが入っている。

カメレオンみたいなファンキーな曲とか、サンバと4ビートが交互に出てくるちょっとノットエチオピアみたいな曲とか、結構バラエティに富んだ選 曲。まあ、典型的なこの頃のジャズ/フュージョンですね。このレコード25年ぶりぐらいに聞いたのだが、当時の印象通りグロスマンの調子はいま一つかな。 わかりやすいグロスマンフレーズのオンパレードではあるのだが、なんか本調子ではない感じ。実は隣のボブミンツァーが素晴らしくて、負けているかもしれな い(笑)。

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もう一枚はちょっと時間が空くが1980/11に録音された菊地雅章の”Susto”と”One Way Traveler”という2枚のアルバム。私はOne Way Travelerしか持っていないが、4曲中3曲でグロスマンのソロがフューチャーされている。当時の菊池雅章は、当時活動停止中のマイルスをリアルタイ ムで模倣するような混沌とした音楽をやっており、どれもこれも怪しげなビートの上に怪しげなコードがそのうえでソリストがピーヒャラ吹くといった内容。残 念ながら菊地雅章にはマイルスマジックはないので、ほとんどの部分が退屈だなあ、私には。そういえば、その後水戸で菊地雅章のバンド(なんとかブギーバン ド)見たけど何がなんだかさっぱりわからなかった(その模様がライブ盤になって評論家から激賞されて相当驚いたりしたものだ)。

<One way travelerのジャケット:CDが出ているはず>

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 話はずれたが、まあ、要はそういう雰囲気のアルバムなので、グロスマンもマイルスバンド当時の役割を期待されている感じで、なんとなく出てきて ピーヒャラ吹いて、という感じである。ただし、一曲だけ若干レゲエ風味があり、コード進行もある”Sum Dum Fun”という曲でテナーを吹いて、なかなかいいソロだ。この曲、当時ブリジストンのコマーシャルかなんかでテレビで流れてたよなあ、確か(注:これは私の勘違いで、後に、CMになっていたのは"Susto"の方の"ガンボ"という曲だったことが判明。アルバム全体で見るとSustoのほうが100倍いいです)。
 今になってみ ると、こんな曲でCM作るなんてなかなかの度胸だと思うが、まあそういう時代だったんだろう。

 今回、このOne way Travelerの日本盤解説を見ていたら菊地雅章のコメントがあって興味深いので引用してみる。曰く、「スティーブグロスマンは、世界中のテナーの中で 一番才能があると思う。前からコルトレーンの様に吹くのをやめろと言っているが、ちらっと凄いものが出てきても、コルトレーン・コンセプションに逃げ込ん でしまうあたりがやや不安だった」。これはどういう意味なのだろうか。私の様な凡人に菊地雅章のような天才の考えていることを推し量ることは不可能ではあ るのだが、その後のグロスマンの活動を考えると興味深い(おそらく菊地雅章の考えた方向とは真逆に行ってしまったというのが正解なんだろうが)。

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最後に、最近知ったこの時期のグロスマンの音源としては最上級の一枚。1981年の7月にヨーロッパで録音されたGil Evans OrchestraのLunar Eclipseというライブアルバムだ。というわけで、81年の夏にはギルエバンスのバンドで欧州ツアーをしていたことがわかる。

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 81年というのはマイルスが数年にわたる引退生活から復活した年であり、ジャズ界は変に沸き立っていた。確か7月に行われたニューヨークで行われ たクールジャズフェスティバルで奇跡の復活を遂げたわけだが、そのフェスティバルにギルエバンスオーケストラも出ていたはずで、そこでは確かビルエバンス (ts)が入っていた(スイングジャーナルかなんかの記事で写真を見た)。おそらくその直後に行われた欧州ツアーでの録音が本作というわけだ。

 グロスマンのソロが出てくるのは2曲目”Variation on the Misery” だけなのだが、これは本当に強烈。そもそも怪しげなアンサンブルで始まる怪しげな暗い曲なのであるが、グロスマンがソロを一音吹くと、音量がぐっと上がっ て、部屋の温度が嫌な感じで下がる(笑)。「荒野の素浪人」というか「ユダヤ系ゴルゴ13」というか、「薄暗く光る出刃包丁」というか、一匹狼のさすらい テナーマンの凄さをひたすら感じさせる音、フレーズ、構成のソロが聴ける。WRに入る前の若きオマーハキムとハイラムブロックがバックで大暴れているのも 含め、正に名演。盛り上がる割にものすごく暗いけど。

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 と、とりあえず私が持っている範囲でこの時期の参加作を何作か取り上げてみた。

 今回の結論だが、こうやって並べて聴いてみると、稀代の「ハイブリッドテナー」のフュージョン不適応が明らかになったといえるのではないだろうか (最後のGil Evansのような例外もあるが)。そもそもプレイがガサツというか、不器用な感じで精緻なバックのサウンドとはマッチしないし、短いコーラスでメリハリ の利いたソロ、とかもなかなかできない。かといって菊地雅章や引退前のマイルスの様な混沌としたビートの一発モノではワンパターンに陥ってしまってなかな かカラーが出せない。ジャムセッションではブレッカーだろうがボブバーグだろうが、あるいはジョージアダムスだろうがビリーハーパーだろうが軽く蹴散らし ていたはずのグロスマンだが、この路線には自ら疑問を感じていたとしてもおかしくはないだろう。

 というわけで、81-84年あたり、グロスマンは表舞台から姿を消す。といってもNYでの活動は続けていたんだろうが、それは次回に書く。この時 期、私は大学生で、遅ればせながらグロスマンフリークとなって音源をあさっていたのだが、リアルな活動がまったく聞こえてこないため(一方悪いうわさも聞 こえていた)、ああ、この人は既に幻の存在で、実際にそのプレイを聴くことはできないのだろうなあと諦めていた覚えがある。

 さて、当時、極端に情報が少ない中で妙に印象に残るエピソードがあるので紹介して今回を終えよう。確かスイングジャーナルか何かの記事だと思うの だが、81年の復活マイルスバンドに抜擢されたビルエバンスのインタビューの発言から。うろ覚えだからこんな感じだったと思う、曰く、「デイブ(リーブマ ン)に師事した僕は、一時期、本当にデイブそのままのスタイルになってしまっていた。でもあるときスティーブ(グロスマン)から『もっとロリンズを聴け』 といわれて他のプレイヤーも聴くようになり、プレイの幅を広げることができたんだ」

 当時は「へ~」くらいしか思わなかった記事だが、今になって考えると、当時(81年ごろ)のグロスマンがテナーの新星にこのようなアドバイスをしていたというのは極めて暗示的といえる。

というわけで、次回はバッパーとしてシーンに復活してくる時期を検証してみる。最終回のつもり。

<おまけ:前回取り上げたBorn at the same timeのオリジナルジャケット。凛々しい、と思うのは信者だけか(笑)>

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【その4】Steve Grossman研究-70-80年代のスタイル変遷を検証する―

<その4 電化サウンドへの傾斜と裏側でのアコースティック回帰 ‘76-‘78年>

 本論全体を通じて言いたかったこと、すなわちグロスマンのハイブリッド性(とその凄さ)については前回書いてしまったので、これ以降は蛇足気味ではあるのだが、まあ、そういわずに70年代後半を検証してみたい。

 おそらく、70年代にあっても、NYでのローカルなセッションにおいては、日本で残された記録の様な極めて伝統的なジャズのスタイルでの演奏を繰 り広げていたであろうグロスマンであるが、レコードを通じて表に出てきた音楽はちょっと違っていて、当時のジャズシーンの影響を色濃く受けたものだったと いえる。要は「電化」「ロック」「クロスオーバー」さらには「フュージョン」といったキーワードで語られる環境である。

 まあ、1976年当時といえば、電化ジャズのパイオニアであるマイルスが自爆→活動休止するのと入れ替わるように、ヘッドハンターズ、ウェザーリ ポート、リターントゥフォーエバー、マハビシュヌなど、いわゆるマイルススクール出身者の電化サウンドが一世を風靡していたのは言うまでもない。ジョージ ベンソンが「ブリージン」を出したのもこの時期だし、もう少しするとリーリトナーや、ラリーカールトンが出現する。まあ基本的にピアノはキラキラエレピ、 ポリシンセ積極導入、ギターはオレンジスクイーザー、色づけに民族音楽チックなパーカッションでもいれようか、っていうのがジャズ業界のトレンドだった。

 一方、そうはいってもNYあたりにはロフトムーブメントなるトレンドもあって、暑苦しい連中が、どちらかというと精神性と体力に重きを置いた暑苦 しいジャズをやっていたりした。逆にいえば、この時期にわざわざGiant Stepsとか、Recorda meとかGroovin’ Highなんぞという過去の偉人の作品をご機嫌になどという奇特な人は極めて少なかったということだ。

 というわけで、もともとマイルスバンドや自らのリーダー作で電化されたジャズをやっていたグロスマンとしても、基本的にはそのムーブメントに乗っていたともいえる。当人が希望していたかは定かではないが。

 では、この時期のレコーディングを並べてみる。活動の中心は、Stone Allianceというバンドである。

Stone Alliance/Stone Alliance  1975/6  1976/6録音
Steve Grossman/Terra Firma 1976/4録音
菊地雅章 東風/Wishes  1976/8 録音
Stone Alliance/Con Amigos 1977/4 録音@ブエノスアイレス

 Terra FirmaはStone Allianceにヤンハマーが加わっているだけで、要は初リーダーと同じメンツだ。

 さらに、Stone Allianceは、最近になってブレーメン、アムステルダム、ブエノスアイレスでの各ライブがCD化されている。一応全部持っているので録音日付を チェックしようと思ったのだが、どこにも何も書いていない(笑)。そもそもこのCD群いい加減なんだよなあ。ライブインブエノスアイレスと、ライブインア ムステルダムのジャケットにおそらく同じ日のステージの写真使ってたりして(服装および楽器のセッティングが同じ-面白いので写真アップします)。

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 しかし、ビニール盤で持っているCon Amigosの日本語解説には「76年にトリオでデビュー作を吹きこんだ彼らは、同年10月から77年4月にかけて、チリ、ウルグアイ、ブラジル、アルゼ ンチン、パラグアイという中南米5カ国を歴訪するツアーしており、その最後の訪問地で録音されたのが本作である。また77年秋には欧州各国をツアーしてい る」なる文章があった。7カ月かけて5カ国のツアーってなんだよ、ってツッコミはともかくとして、これらのライブアルバムは1977年の春および秋にレコーディングされたものと思われる。

 当時の活動の中心であったStone Allianceであるが、改めて書いてみると、グロスマンとジーンパーラ(eb)、ドンアライアンス(ds/perc)のトリオ編成が基本である。当時はウェザーリポートの対抗馬、みたいな騒がれ方もしたらしいが、まあ今冷静に聴いてみるとそんなタマではない(笑)。そもそもキーボードとギターのいない クロスオーバーのバンドなんてのは形容矛盾みたいなもので、なにか特徴があるとすれば、たまにアルゼンチンタンゴ関係者が入るとかそんなもんである。

 

曲は、バリエーションに富んでいるように見えて、毎度似たような曲をやっている。当時のグロスマンフリークにはおなじみのお経ジャズ、”King Tut”とか!Zuru Stomp”とか。さらにライブだけだが、最近もやってる”Taurus People”とか”New York Bossa”などのグロスマンスタンダードも。演奏のテイストも、楽器編成からくる単調さは免れないし、音楽的なコラボレーションやハプニングの要素も実 は希薄だ。その意味でもウェザーあたりの計算された(かつ、自然発生的でもある)サウンドとはえらい違いだ。

 しかし、当時のグロスマンのブチ切れプレイがコード楽器レスのトリオ編成で思う存分楽しめる(特にライブ盤)、という意味での価値は高い。特に ”Taurus People”や”New York Bossa”は結構難しい(とはいえII-V進行が基本の)コード進行の4ビートチューンであり、ある程度「ハイブリッド感」を楽しめると思う。 ”Arfunk”なんて曲も一発でのブチ切れソロが強力。ちなみに、3枚のライブ盤のうち、ブエノスアイレスだけは商用化されるのに適切とは思えない音質 の悪さなのではないのでお薦めしません。

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 さて、上記はホームグラウンドである米国におけるメイジャーシーンを狙った活動であるといえるが、実は同時期に欧州でその後の活動を示唆するよう な重要なリーダー作を二枚録音している。上記Stone Allianceの活動と合わせて考えてみると、これらの録音は彼らのツアーの最中に、グロスマン単独で地元ミュージシャンと制作したと思われる。

Born at the Same Time/ 1977/11/25録音@パリ
New Moon/ 1978/1/14-16録音@パリ

 一枚目はフランスジャズ界の重鎮ダニエルユメール(ds)を含んだピアノトリオにグロスマンが加わった作品。フリークの間では有名ですな。いわゆ る当時のグロスマンスタンダードであるお経系の曲ばかりであるが、基本的にはアコースティックなジャズ。特記すべきはやはり”B面一曲目”の”A Chamada”であろう。いわゆる一発もので、凶悪に煽りまくるバックの上で気が狂ったように吹きまくる。この曲でやられてしまったという初期グロスマ ンのファンも少なくないであろう。いわゆる「ブチ切れ」という言葉はこのテイクから生まれたといっても過言ではあるまい。グロスマンフリークになりたけれ ば避けては通れない名演(迷演?)ですな

 さて、問題(そして、本日のポイント)は二枚目である。これは一転してJean Francois Jenny Clarkという長い名前のアコースティックベーシストとの地味なDuoアルバムで、グロスマンは自らのサックスのほかにピアノを多重録音している。基本的には、お経のような単調で暗いグロスマンオリジナルが続くのだが、最後に突然”Out of Nowhere”と”Body and Soul”というバップ&スタンダードチューンが出てくる。両曲とも余計なピアノが入らない完全デュオなのだが、特に”Out of Nowhere”はテーマの吹き方からアドリブから、まさに50年代ロリンズを彷彿とさせる完璧なバップスタイル演奏されており、正に現在のスタイルの原点ともいえるテイクになっている。”Body and Soul”の方は、イントロからそのままアドリブに突入して1コーラスで終わる。これも若干コルトレーンあたりのエッセンスを感じさせつつ、アドリブはモロバップである。

 私がこの二曲を初めて聞いたのは、グロスマンといってもライトハウスと菊地雅章ぐらいしか聴いた事の無かった時期であり、とても同じ人の演奏とは 信じられなかった。同じ人だとしても、きっと冗談だかパロディだかやってるんだろうなあと思ったりしたものだが、今から考えてみると、テナー吹きとしての この人の本質であり、「実はもともとやりたかったこと」を素直にやっちゃった、ってなところなんだろう。やっぱりグロスマンって音楽家というよりは、テ ナーサックスのジャズが大好きな職人気質的「テナー吹き」なんだろうなあ。と改めて思う今日この頃です。

<問題のNew Moonのジャケット写真発見。多分CD化はされていない>

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さて、もうすぐ70年代も終わりですね。続きはまた。

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【その3】Steve Grossman研究-70-80年代のスタイル変遷を検証する―

こういうのは勢いのあるときに書かないと永遠に書かないので、続けて書いてみる。

<その3 日本を襲ったハイブリッドテナー グロスマン初来日(多分) 75年 (76年?)>

 と、安いジャズ入門誌の様なタイトルをつけてみたが如何だろうか(笑)。

 1975年というのはオフィシャルグロスマン史では目立った動きが見られない時期である。前回書いたエルビンディスコグラフィーによれば、New Breedという大編成レコーディングが一応1975年となっているが、同年の夏の欧州ツアーにはパットラバーベラを連れていった様だし(ユーゴスラビア でのライブ盤がある)、NYのスタジオワークだけ付き合ったってところかな。

 しかし、われわれ日本人のグロスマンフリークにとっては実に重要な年になった。グロスマン初来日(多分)がこの年であったのだ。どれもこれも人から聞いた話なので、幾分かうそが混じっているかとも思うが、一応経緯を書いてみる。

1)  当時、既にNYに移住していた菊池雅章が、日野皓正と双頭バンド東風(コチ)を結成し、来日。
2) 来日公演の前か後に、グロスマン単独でひと月ぐらい日本に在住し、日野元彦バンドでツアー?を行う。メンバーは日野元彦(ds) 渡辺香津美(d) 岡田勉(b) にグロスマン。これツアーじゃなくて、東京近辺での数回の公演ってだけかもしれないが。

 というわけで、私の手元にはジャズ研の先輩の先輩の先輩…あたりから受け継がれた当時のライブ隠し録りテープがあるのだ。元のテープから書き写し たライブデートは1975/11/29、場所は新宿のピットイン。トコさん(日野元彦)のMCによると、結構長いツアーを行った後のラス前ライブで、あと は翌日のタロー(歌舞伎町にあった小さなジャズクラブ)を残すのみ、という状況であったらしい。

 で、演奏している曲だが、これが強力なスタンダードオンパレード。

Groovin’ High
Recorda Me
Giant Steps
Three Cards Molly
New York Bossa
Soultrane
Taurus People
Some Other Blues

 ね、凄いでしょ?しかもどれもこれも10分超え、下手すると20分超えの長尺テイクばかり。

 私、これを大学生の頃初めて聴いたのですが、とにかく一曲目のGroovin’ Highには衝撃を受けた。私のグロスマン信者化を決定づけた音源といっても過言ではない。60年代コルトレーン直系サックス吹きだと思っていたあのグロ スマンが、誰もが知る典型的バップチューンをバリバリに吹いて、しかも50年代ロリンズ系のバップの匂いもプンプンさせてる。フレーズは、30%バップ、 70%それ以降ぐらいのブレンドかな。コルトレーンのペンタトニック、アウトフレーズをロリンズのバップ感・グルーブ感漂う八分音符でガンガンいってる。 Recorda meなんかもそんな感じだな。

 改めて、グロスマンの魅力ってその「ハイブリッド」感だと思うわけですよ。凄くあからさまに言うと「コルトレーンとロリンズのハイブリッド」。 当然ですが、ジャズテナー奏者にとってコルトレーンとロリンズといえば王と長島みたいなもんで(例えが古いな(笑))、もう揺るぎない二大巨頭。その二人 の凄味を一人で軽々と表現しちゃうというのがテナー吹き的には全く信じられない。まあ、世の中には「表面だけなぞってる」とか「八分音符垂れ流し」とか、 「自らのスタイルが感じられない」とかグツグツ文句を言う人がいるとは思いますが、悔しかったら王と長島になってみろってんだ。

 というわけで、この演奏を生で見た人は本当に幸せ者だな。誰か当時を知る人はいませんかねえ。このバンドをタロー(30人ぐらい入ったらいっぱい の狭いハコだった。最前列の人はホーンまで50cmとか(笑))で見たら、本当に死んでしまうかもしれない。当然ながら、当時の若手サックス吹きには極め て大きなインパクトを与えたに違いないし、その影響(伝説)が私が学生だった80年代前半まで残っていたということなんだろう。86年には本人が再び来日 しちゃうから、伝説じゃなくなっちゃうんだけどね。

 さて、この来日時の音源がもう一つ存在していた。渡辺貞夫さんがFMでやっていた番組(多分、「ナベサダとジャズ」の頃だと思う)のエアチェック で、やはりピットインのセッションだったと思うが、ナベサダバンドにグロスマンが飛び入りして”I’ll Remember April”やってるってやつ。確かドラムが村上寛さんで、ギターに増尾さんが入ってたのかな?初めは地味に始まるのだが、グロスマンのソロで強烈に熱く なる。曲が曲だし、当然ロリンズ臭もプンプンする「ハイブリッド」なソロだったと思います。ナベサダとの4バース交換みたいなのもあったなあ。テープどっ かいっちゃったんだけど、勿体ないことをしたものだ。

 あと、あくまでも噂話だが、当時日本に在住してたグロスマン、結構我儘邦題していたらしい(笑)。昼からピットインでうろうろしていて、当然イッ ちゃっていて(笑)、突然若手のバンドに乱入したかと思うと、いきなりその若手に出入り禁止宣言しちゃうとか。出入り禁止はあんただっちゅうの(笑)。上 記ピットインでのライブテープのMCとかも結構イッちゃってるし。そこら辺のエピソードも含めやはり魅力を感じざるを得ない(笑)。私のロールモデルでは あります。

 というわけで、結論ですが、現在のバッパーグロスマンのスタイルというのはすでに当時確立されていたということでいいのではないかと。全く身も蓋もないが、要は何でもできるわけですよ。あとは、周りのメンツと選曲による。以上。みたいな。

 と書くとシリーズ終了になってしまうが、もうちょっと続きを書くつもりです。

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 と、ここまで書いてネット見てたら結構衝撃の事実が!!

 菊池雅章の東風(コチ)の来日時パンフレットというのがヤフオクに!写真入りなのでかっぱらってみました。
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h52960250

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 これによると、公演は11/21@中野サンプラザなのだが、チラシには1976年8月に録音された”Wishes”の宣伝が入っているので、間違いなく、1976年(以降)。メンバー紹介にはグロスマンの名前も。

 しかし、下記菊池雅章半公式サイトでは1975年来日ということになっている。

http://www.cyborg.ne.jp/~poo-sun/biography/index.html

 ってことは、このバンド2回来日したってことなのか?それとも75年ってのが嘘なのか?ちなみに日野元彦の名盤「流氷」は渡辺香津美を入れた似た ような編成のバンドで1976年の2月に録音されており、そこではグロスマンの名曲”New Moon”が演奏されているので、グロスマンとのツアーを終えたバンドがレパートリーを継承したとも考えられるのだが・・・誰か真実を知ってる方求む。

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【その2】Steve Grossman研究-70-80年代のスタイル変遷を検証する―

<その2 エルビンバンドで修業、そして初リーダー作発表 ‘71-’74年>
勢いで始めてしまったシリーズだが、早くもネタ枯れだ(笑)。まあ書いてみようか。

 マイルスバンドをクビになった(って決めつけちゃいかんか)後のグロスマンの動向であるが、おそらく、しばらくしてエルビンに拾われることになる。ちょっと探してみたら結構完璧なエルビンのディスコグラフィー発見。すごいなあ、こういうの作る人って。

http://ja.jazzdisco.org/elvin-jones/discography/

 このディスコグラフィーによると、初めてエルビンとレコーディングしたのは1971/12/16、リーブマン、ジョーファレルのエルビンおなじ みのメンバーに加えて、バリトンのペッパーアダムスや増尾好秋さん!まで入ったTentetで、”Merry-Go-Round”というレコードになって いる。もしかすると昔テープ持ってたかもしれないなあ。まあ、おそらくこの頃からエルビンバンドのメンバーとなったのではないかと思われる。というわけ で、1970年後半-71年前半の活動は謎のままだ。なにやってたんだろう。まあ、よく考えるとまだ二十歳とかだからそこら辺で遊んでたのか(笑)。

 録音としては翌年7月に”Mr.Jones”をやはりOctetという大編成でスタジオ録音しており、そして1972/9/9には、リーブマン とのコード楽器レスカルテットであのジャズテナーサックス史に残る不朽の名盤”Live at the Lighthouse”をライブ録音している。エルビンのバンドにはその後1974年くらいまで断続的に参加しているようだ。

 さて、明けて1973年には、初リーダー作”Some Shapes to Come”を録音している。データを調べようと思ったら、実はこのアルバム持っていないことが判明した(笑)。おかしいなあ、ビニール盤も見当たらないん だが。やっぱり持ってなかったのかしら。しょうがないからさっきアマゾンに発注してみました。とりあえず、All Music Guideによれば録音は1973/9/4-6ということで、ライトハウスから約1年後ですね。このリーダー作、ベースはジーンパーラで、これはエルビン バンドつながり。ドラムはドンアライアスで、ジーンパーラも含め、要はそのあとのストーンアライアンスコネクションができたってことですな。この3人に、 ジェフベックでブレーク前(でもすでにマハビシュヌで有名だったのかな)のヤンハマーが参加したカルテットで、極めて暴力的な電化ジャズを演奏するという コンセプトのアルバム。

 なんか、このアルバムが典型的だけど、ストーンアライアンスにしても、この後何枚か出るグロスマンのリーダーあるいは準リーダーのアルバムって 妙に音が加工されてしかも歪んでるんだよねえ。本当はもっといい音してるはずなのに、録音技術が稚拙なのか、グロスマンの音がけた違いに大きいのか、当時 の流行でわざとやってるのか・・・よくわからないけど、ここら辺の録音とマイルス諸作のせいで一般リスナーからは「電化ジャズマン」イメージがついちゃっ たのかもしれない。

 さて、この当時のプレイスタイルは、ライトハウスのプレイに代表されるいわゆる初期グロスマンスタイル確立ということでいいんだろう。ドスの効 いた音でコルトレーン系のクロマチック+跳躍フレーズを吹きまくるってやつですね。おそらくエルビンに鍛えられたんだろうが、8分音符はデビュー当時に比 べてよりメリハリが付いているような気がする。

 ライトハウスのレコーディングで残っている曲はやはりモードっぽい曲が多い。しかし、想像ではあるが、このバンド、ライブでは結構スタンダード とかもやってたんじゃないかなあ。例えば下に書いたMr.Thunderというアルバムでは、Genovaというしっとりしたバラードを結構ストレートに 吹いてたりするし、以前はよくセッションで演奏されてたAntiguaとかでちらっとバップっぽいフレーズが聴けたりもする。もともとこういうプレイがで きる人だったのか、この時期に勉強したんだかよくわからないが、バッパーグロスマンの萌芽はこの時期の録音に既に見られるといっていいかもしれない。

<<<この時期の重要アルバム>>>
 ライトハウスおよび初リーダー作は当然凄いのだが、今回のバッパーグロスマンのルーツを探るという趣旨から考えると、まあ置いといて、ちょっと変なアルバムを2枚ほど。

<Unicorn/中村照夫>

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 73年、リーダー作を録音する直前に、もう1枚変なアルバムに参加している。日本からNYに移住してNYジャズシーンの「ドン」になった中 村照夫というベーシストの”Unicorn”というアルバム。日本のTree Blind Mice制作です。私はビニール盤で持っているが、今調べたらCDも売ってるみたいですな。録音は73年の5月と6月。

 基本は下手なボーカルが入った変なジャズロックなのだが、なぜか突然コルトレーンのSome Other Bluesとグロスマン作のNew Moonが入っている。New Moonはこれが初出かな。Some Other Bluesはイントロとエンディングにアルムザーン(ドラム)の雄叫びが入っており爆笑。演奏自体は普通にコルトレーン系グロスマンですね。音は結構普通 に録れている。最後にラテンジャズみたいな曲があって、テーマは哀愁漂うコード進行なのだが、ソロは一発になってしまう。残念。
 中村照夫一派とは80年ごろまで断続的に演奏しているようで、実はグロスマン70年代の活動のカギを握る重要人物といえるかもしれない。リーダー作のストーンアライアンス一派と合わせて、グロスマン70年代活動の基盤はすでにこの時期にできているのかな。

<Mr. Thunder/Elvin Jones>

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 上記ディスコグラフィーによると1974/9/29にスウェーデンで録音されたアルバム。凄くいい加減なジャケットが爆笑なのだが内容は非 常に落ち着いて聴かせる名盤と思います。ローランドプリンス(g)とパーカッションが入って、ピアノのいないクインテット編成(要はグロスマンワンホー ン)。スウェーデン録音ということは、この時期このバンドで欧州ツアーをやってたかと想像される。

 このアルバムは、いわゆるワンホーンジャズの王道を行くような楽曲構成で、カリプソリズムあり、バラードあり、Three Cards Mollyのようなエルビン-グロスマン十八番のモードモノあり、三拍子のNew Moonも入ってたりして楽しめる。録音や楽曲構成のせいもあるんだろうが、グロスマンの音も、80年代のバップバリバリ時代の太くてツヤがある音に近 い。フレーズ的には95%ぐらいコルトレーン系ではあるが、上記した通りAntiguaあたりではバップ王道フレーズがちらっと出てきたりとなかなか味わ い深い。そういえば、学生時代この曲のソロコピーした覚えが(笑)。グロスマンスタイルとしてはもうすでに相当レベルで確立しており、改めて聞いてみる と、最近の演奏といわれても「お、結構気合入ってるな」ぐらいで、あまり驚かないような音+構成かもしれない。

というわけで、続きはまた。

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【その1】Steve Grossman研究-70-80年代のスタイル変遷を検証する―

読者は強力に限定されるものと思われますが、突然こんなものを書き始めてしまいました。シリーズ化するつもりですが、どうなることやら。やたら長いので興味のない人は読まない方が良いかもしれません(笑)。

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<前書き>
 今やすっかり「ロリンズ系ハードバップテナーの巨人」的な扱いをされるグロスマンであるが、シーンに登場したときはいわゆるユダヤ系コルトレーン派の最右翼だった。その後はストーンアライアンスのような多少電化されたジャズも演奏し、勘違いした輩は「フュージョンサックスの代表」的な扱いをしていたりした。
 私が彼の存在を知った1980年代の前半は、いわゆるメイジャーシーンからお隠れになっている状況であったが、どちらかといえばエルビンのライトハウスに代表される「コルトレーン系」グロスマンに魅了されていた。そんな中、80年代半ばに表舞台に復活し、初めて生で見たグロスマンは現在のロリンズを中心とするモダンジャズの王道スタイルに変化していた。70年から80年にかけてのある時期に、間違いなくスタイルへの大きな変化があったわけである。
 というわけで、突然ではあるが、当時の限られた音源から、グロスマンスタイルがいつどのように変わったのかを検証してみる。

<その1 突然のシーン登場:デビュー当時 1970年のグロスマン>

 さて、グロスマンはショーターの後釜としていきなりマイルスバンドに抜擢されたことで名を挙げたわけであるが、音源的なデビューは何時なのだろうか?
 と思って、ちょっと調べてみたのだが、マイルス関連として中山某の「マイルスを聴け!(第六版)」によれば、どうも"Jack Johnson" のSessionらしい。それが1970/2/18 and 4/7とある。しかし、ライブでは1970/3/7のLive at Fillmore East(結構最近リリースされた正規盤)までショーターが吹いており、ライブ音源でのグロスマン初登場は1970/4/9-10の"Black Beauty"ライブの様だ。
 一方、この時期日野皓正の"Alone Together"というアルバムに参加しており、改めてCDのクレジットを見てみたらなんと1970/4/6-7の録音!ってことは、Black Beautyより2日ほど早いし、さらに言えば7日はこれと”Jack Johnson”セッションの掛け持ちだったのだろうか(笑)。
 まあ、当時のマイルスのスタジオ盤クレジットは極めて怪しく、一方、日本の会社が制作したく日野皓正の方のクレジットはおそらく正しいのだろうから、掛け持ちってことはなかろう。どちらにしても1970年の4月あたりが実質的なレコーディングデビューで、もしかするとヒノテルの作品がデビュー作だったのではないかと思われる。ヒノテルはこの時期1カ月ぐらいNYに滞在して、最後にレコーディングを行ったということであるので、想像するに、NY ミュージックシーンでグロスマンがマイルスバンドに抜擢されたことを聞いたヒノテルが、いち早く捕まえて無理やりレコーディングさせちゃったということではないだろうか。日本人としてある意味うれしい話でもあるなあ。そういえばジョンスコの初リーダーはトコサンプロデュースではなかっただろうか。
 All Music Guideによれば、グロスマンは1951/1/18生まれであるのでこの時まだ19歳!恐るべしである。
 さて、中山本を見ると、この後ライブ音源でサックスがゲイリーバーツに変わるのが70年の10月。音源上でグロスマンが確認できるのはいわゆるフィルモアのセッションが行われた6月が最後の様である。と考えると、グロスマン在籍期間は同年4~6月の3カ月!えー、そうだったんだ。結構新たな発見だな、わたくし的には。
 「若くしてマイルスのバンドに抜擢され」が常套句のようについて回るグロスマンではあるが、実際には、「ショーターを失ったマイルスが血迷って採用し、すぐビークになった若造」、という見方の方が正しいのかもしれない。
 しかし、演奏スタイルはすでに初期グロスマンモデルが確立されており、何枚かのアルバムで強力な切れ味の演奏が聴ける。とはいえ、当時のスタイルはやはりコルトレーンの影響が色濃いもので、いわゆるバップ時期のサックス奏者の影響はあまり感じられない。最近のCDでグロスマンに慣れ親しんだ人が聴くと、違う人が吹いているように聞こえるかもしれない。

<<<<この時期の重要アルバム>>>>

 というわけで、この時期のグロスマンの本気プレイが聞けるのは上記、ヒノテルの"Alone Together"と、フィルモアセッションあたりかな。ちょっと遅れてチックコリアのリーダー作がある。


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 上記のとおり、グロスマンの実質的なデビュー作といっていいのかもしれない。長尺もの3曲。うち一曲はソプラノ。まあ、当然といえば当然だが、すでにすっかりグロスマンである。フレーズはペンタトニック+変なクロマチックフレーズ、フラジオの伸ばしなど、やはり64-5年あたりのコルトレーンの影響がモロに感じられ、バップ臭は極めて少ない。その後の完成形に比べるとちょっとぶっきらぼうかな。Alone Togetherはまだちょっとあか抜けない感じもあり「グロスマンの真似をする不器用な若者」みたいに聴こえる(笑)。一方、早いブルースのMake Leftのソロはグロスマン本来の切れ味のある演奏だと思う。

< Complete Friday Miles at Fillmore/Miles Davis>

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 実は持っていないのだが、マイミクぴのさんのお店でたびたび聞かせてもらっているアルバム。一曲目のDirectionsにおけるグロスマンのテナーソロはまさにキレキレで凄味があり、とても19歳の演奏とは思えない。同時期の一連のマイルス作品は相当な編集が入っていて、たまにグロスマンが出てきてもソプラノでピーヒャラしているだけ、みたいなイメージがあるが、テナーでこんな凄い演奏をしていたのだ。ショーターの後釜に入った理由もよくわかる。でも、なんですぐ辞めちゃったんだろう。マイルスの自伝あたりに何か書いてないかな。


 おそらくマイルスのバンドをクビになったころ(1970/9/14)、やはりマイルスバンドで一緒だったはずのチックコリアのリーダー作に参加したもの。確か、Chick Corea(p) Dave Holland(b) Jack DeJohnette(ds)というマイルスバンドリズムセクションにグロスマンが加わったカルテット。チックコリアは生ピアノ、ベースもアップライトを使っており、半分ぐらいフリー調の重いジャズ。
 アルバムのクレジットにはグロスマンと書いてあるのだが、聞いてみるとフレーズも音もビブラートの感じも凄くリーブマンっぽい(笑)。フリークの間でも「これ本当はリーブマンなんじゃねえか」という疑念が絶えないアルバムであったのだが、某氏が当人に聞いたところ「あれは俺だ、わざとデイブの真似して吹いた」みたいな証言を得たという話だ(人づてに聞いたので真偽のほどは不明)。まあ、よく聞くとやっぱりグロスマンだなあと思うのだが、いつもに増して変態クロマチック16分音符フレーズを多用している。Slumberという4小節ごとにモードが変わっていく難しそうな曲のソロが強力に格好良い。私は、レコードからダビングしたカセットしか持っていないのだが、これCD化されてないのかなあ。と思ってあるサイト見たらレーベルが (toshiba)って書いてある。日本制作盤だったのか!無理そうだな。

と、ここまで書いてとりあえず日記としてアップしておくのだ。続きはまた行き当たりばったりで。

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放し飼いの映像

先日のライブ映像集です。4曲(3ファイル)あります。

【放し飼いトリオ+】
八木敬之(tsax) 仕方ひろむ(org)西尾研一(ds)+八木義之(vtb)
@オルガンジャズ倶楽部 2008/06/05

-曲リスト-

Prime Directive
Four Brothers
Young and Fine(1) (2)
4th Build

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【ソロナニ】第15回:アドリブの練習について考える(4)

突然再開する気になってしまいました。なんと1年半ぶりだよ。その間何やってたんだろうねえ。要はmixiにうつつを抜かしていた訳だが。まあいいや。

今回はスケール練習について書いてみようと思う。

(1) スケール練習はアドリブの役に立つのか

やはり、管楽器吹きたるもの、スケール練習をやってナンボというものかもしれない。クラシック、ジャズを問わず一番練習っぽいもんなあ。ドレミファができないといろいろ困ることもあろう。しかし、あえて天の邪鬼な態度をとってみると、スケール練習ってジャズのアドリブの為にはあまりよろしくないのかもしれないと思ったりする。

アマチュアのミュージシャン(特に管楽器)のアドリブを聞いていると、スケールを上下に行ったりきたり、ってのが結構多い。いわゆるドレミファ(イオニアってやつですか)のどこかでふらふらと音を探しているような感じ。ドレミファー、ファミレミファソファミー、とか。コードが変わるとスケールを変えたりするのだがやっぱりドレミファはドレミファ。アドリブの方法論としてはいわゆる「アベイラブルノート」ってやつなんだと思うが、これが悲しいぐらいジャズっぽく聞こえないのだ。いや、わかるんですけどね。私もよくやるし。

思うに、ジャズの語法というのは結構独特で特徴がある。まあ、煎じ詰めていうとジャズっぽい=チャーリーパーカーっぽいといってもいいかとも思う。すなわち、どちらかというとアルペジオっぽい音の跳躍の入ったフレーズ+クロマチックにコードトーンめがけてうろうろするようなフレーズの組み合わせってなもんだろうか。チャーリーパーカー的といったのは、音の選び方にもいわゆる「裏」だとかいろいろあるわけなのだが、そこら辺私はわからないので適当にごまかす。じゃあモード奏法はとかいう人もいるかと思うが、あれはマイルスがやるから格好良いのだ、っていうかアベイラブルノートスケールの上下だけではアドリブやってないよ。多分。それなりの跳躍とか半音アプローチとか必ず入ってるはず。

そんなわけで、ドレミファやってそれを応用しようとすればするほどアドリブが冴えなくなるといったら言い過ぎだろうか。当然皆さんただのドレミファだけじゃなくて、いわゆる12Keyで練習するわけで、これもまあ当然必要なわけだが、アドリブをやるための「ジャズ耳」からは遠くなってしまうような気がしてます。じゃあ、スケールやらなくていいのかというと、やっぱりそうでもないなあと思ったり。う~、なんか煮え切らないなあ。

(2) では、どんな練習をやればよいのか

そこで、本稿の主旨に立ち戻ってみよう。スケール練習がアドリブ力強化のために役に立つとすればどんなことであるか、無理矢理挙げてみると下記ぐらいなことかな。

・ジャズ耳を作る(ドレミファだとジャズ耳にならないのに注意)
・八分音符を格好良く吹けるようになるため(別にスケールじゃなくてもいいんだけど)

というわけで、私の提案であるが、スケール練習はたとえばこんなポイントを考慮しつつやればよいのではないかと思ってしまいました。

ポイント1:スケール練習すべきネタはなにか

・クロマチック(ベタな半音階)
・リディアンセブンス
・オルタードとかいうやつ
・ホールトーン
・ディミニッシュ、コンディミ
・そのほか適当なオリジナルスケール(ドレミファソ#ラシ♭ドとか)

いわゆるイオニア系がないのに注意。要は、ドレミファの呪縛からいかに離れるかをテーマにするべきではないかと思うわけです。これやればジャズが上手くなるとは実は思っていないのだが、なんかおもしろい効果があるんじゃないかとも感じます。

話はちょっと飛ぶが、学校の音楽教育でいわゆるドレミファを教えないで、リディアンセブンスあたりを「普通のスケール」として教えたらどうなるんだろうね。なんか世界の音楽が妙な方向に向いていったりしないかな。

ポイント2:必ずメトロノームを使ってジャズの八分音符のアーティキュレーションで

これは相当重要だと思う。だらだらと指が動くようになってもジャズは上手くならないのだ。指とアーティキュレーションの組み合わせで練習すべきだし、できればスケール練習だけでスイングできるように常にメトロノームを使うべきだろう。

個人的な話だが、大学時代はロングトーンに練習時間の半分ぐらい費やしていたが、その他になにかあるとすれば、クロマチックフレーズを上下に行ったりきたりというのをさんざんやった。当然メトロノームの2拍4拍に合わせて(あるいは八分裏でならしたり、4泊目だけでならしたり)。まあこれって指の練習というよりも、八分音符の練習だけどね。上手くできると、メトロノームがスイングして妙に楽しくなるんだよねえ。ここら辺はまたそのうち書きたいと思います。

ポイント3:上下をどう考えるか

管楽器の場合同じスケール練習でもどこから始まってどこで帰ってくるかというのは結構考えるところだ。私の場合クロマチックスケールの練習の時はとにかく一番上(フラジオ除く)から下までいったりきたりということをやってましたねえ。どんな音域でもしっかり吹けるようになるという意味ではそれがいいんでしょう。

ただし、リディアンセブンスあたりだとどうなんだろうか。たとえばAから始まったら2オクターブ上まで上るとフラジオになっちゃう。ジャズ耳を作るという考え方からすれば、1オクターブをきっちり練習してスケールの感覚を身につけるのがいいのかもしれない。

ポイント4:音抜き作戦をやってみる

いわゆるスケールを順番に吹いていくと煮詰まるし、一番はじめに書いたようなセンスのないことになるので、途中の音を抜いてみるというのは面白いアイディアかもしれない。テンションノートがどうしたとか理論的なことを考慮するといろいろなパターンがあるんだろうけど、そこら辺よくわからないのでパス。

ポイント5:パターン作戦をやってみる

ただ上下するというより、たとえば4つぐらいの音のパターンを考えてそれを吹く。

たとえば、

ドレミファ# レミファ#ソ ミファ#ソラ ファ#ソラシ♭ ソラシ♭ド ラシ♭ドレ シ♭ドレミ ド~

とか。だんだん、Pattern For Jazz 的になってきますね。これ4つの固まりじゃなくて、3つで3連でやるとか、3つで16分で吹くとか、5つにして16分で吹くとかやると、いろいろな意味で複合的な練習になってCPUの為になるかも。

というわけで、例によってまとまりがないが、今日はここら辺で。でも最近うっすらと考えていたことを書けたからまあいいや。実は、なんか人々を間違った方向に誘っているような気もしてますが(笑)。次回はおそらく3年後ぐらいに気が向いたら八分音符の練習について書いてみたいと思ってます。

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初段映像

ちょっと試してみる

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音源アップ

新潟ジャズストリート(2008/1/19)の音源です。

BW

恋落ち

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